私の勉強部屋は専ら映画館だった。映画館は阿佐ヶ谷にも2軒あったが、通学定期があるので新宿に出かけることが多かった。伊勢丹の向いには名画座もあって安く観られる。封切り館も多く、選択肢にはこと欠かない。黒沢明の『生きる』や『誰が為に鐘は鳴る』などの封切られた年で、今から顧みてもまさに映画の黄金期だった。
難点は二つ。満員で混んでいることと資金源である。当時は立って観るのは普通だった。入れるか入れないかが問題なのだ。学校は2部で夕方からだから、朝一番に行って並べば何とか入れる。問題は資金の方だが、誘惑には勝てず質屋通いを覚え、それでも間に合わず、ついに和作先生に頂いた絵に手を付けてしまった。日動画廊に持っていくと45000円という桁はずれの資金が入った。先生から「困った時には・・」と言われてはいたものの、許されることではない。しかし、一度知った蜜の味は忘れられない。休暇ごとに頂く絵はことごとく日動画廊へ行き、殆どが映画代に代わった。「先生も映画が大好きなのだから」というのが自分勝手な言い訳にならない言い訳である。(以下略)
コラム
昭和・私の生きた時代53 高橋玄洋
昭和・私の生きた時代 52 高橋玄洋
上京の頃
誰の世話だったか、杉並区成宗の素人下宿が私の最初の住家となった。中央線阿佐ヶ谷と荻窪のほぼ中間、青梅街道から南に1丁ほど入った住宅地でやや広い庭に囲まれた平屋の日本家屋だった。この一角は戦災を免れて古い家が多く、裏へ出ると田圃が広がって、遙かに近衛文麿の荻外荘の森が望める静かさである。夏の夜には蛙の声がよく聞こえた。
下宿用に作られた家ではないので、間仕切りはみな襖である。母子家庭の家族が3人に下宿の学生が4人の至って家庭的な雰囲気で、庭や縁側の日溜りで喋ることも多かった。
ただ私の部屋だけは風呂場と脱衣場を改造した4畳ほどの板間で、急造だから敷居や段差があったりした。外から見ると風呂の焚口がそのまま残っている。それでも個室の生活は初めてだから十分に幸せだった。ラジオも座敷に1つ、新聞も回し読み、たばこのピースも一箱買ってきて皆で分けた。学生たちは暇さえあれば麻雀をやったが、私がメンバーに加えられることはなかった。皆プロ級で初心者の入る余地などなかったのである。ただ誰かが大勝ちするとおこぼれに預かって、喫茶店へ出かけたりした。
昭和・私の生きた時代51 高橋玄洋
当時の大学
小林和作先生に背中を押されるようにして早稲田の二文三年に編入したのは、終戦から7年経った春である。東京在住で海兵から直行した連中なら旧制で卒業しようという年だ。終戦直後は無試験の横滑りで入学できたから、同年輩の東大出身者を私は今もあまりおそれていない。所在地や家庭の事情で個人の運命も大きく変わった時代だった。
かく申す私自身、終戦のドサクサにまぎれて何とかすり抜けて来た感が強い。学校制度の変更で二度も受験の機会を得たわけだし、大方が戦時中勤労奉仕で勉強どころではなかったお蔭で海兵にいた分、優位にも立てた筈だし、途中編入の制度自体もドサクサの過渡期だったからでもある。
尾道の短大に進んだ経緯は前回述べた。駅弁大学と軽蔑されながらも全校五十人ほどの1教室だけだから目は行き届く。それも2年で卒業だから最初から専門科目をやる。四年制の大学では三年からが専門科目だから、最初の頃はすべて短大で済ましたことばかり。教壇には有名教授が立ってはいるものの二百人を越す大講堂は満員電車並みで、教授の声はスピーカーを通して横の方から聞こえてくる。後ろ半分はアルバイトと称して別のノートを広げたり弁当を食ったりしている。(後略)
昭和・私の生きた時代50 高橋玄洋
駅弁大学の一期生
朝鮮戦争の起こった昭和25年、私は尾道短大なるものに入学した。教育制度の改変で6・3・3制度が発足し全国に4年制の新制大学が乱立する。人呼んで駅弁大学。人口10万人の尾道にも市立の女子専門学校があったのを男女共学の短期大学に変更する。その任に当たっていたのが父で、志願者が定員に達するかどうかが問題だった。校舎はわが家のすぐ下で国文1クラスという小さなもの。男子学生は私のように何らかの理由で挫折した者ばかり、年齢もまちまちで殆どが無試験に近かった。中卒で代用教員をしていた連中も資格取得のためにやってきた。
しかし馬鹿にしたものではない。学長は頼山陽の直系、教授陣も少数ながら充実、何しろ学生が少ないから実に行き届いた二年間だった。学校は名前などではないのである。というのも、私はその後、早稲田の3年に編入するのだが、少なくとも国文に関する限り、この短大の方が遥かに上だったと今も思っている。同級に後の日本経済新聞副社長の棗田君などもいた。(現在は4年大学として入学も難しくなっている)
世はレッドパージと講和条約で大きく揺れている。特に全面講和か単独講和かは世論を二分した。二十歳の田舎青年には何故そんなにアメリカが講和条約を急ぐのかよく分からなかった。(後略)




