占領政策の急変
昭和24年から25年にかけて米軍の占領政策は大きく変化する。それまでにも東宝争議などで組合運動などへの介入は見えていたが、腫れ物に絆創膏を張るような部分的なものだった。地方に居て判るのは新聞雑誌が主だから、組合が余程はね上って騒ぎでもやり、これを占領軍が鎮圧しているのだろう位にしか考えていなかった。ところがドッジ経済大使が来日しドッジラインと呼ばれる政策が本格化する頃から、共産党は明らかに弾圧の対象とされていると判った。
終戦直後、最も民主的として歓迎され台頭した共産勢力の弾圧に乗り出したわけである。25年6月になると「レッドパージ」として党幹部24人が追放され、占領政策がソ連を意識した共産主義排除にあることは明白だった。
考えてみればこうした流れは終戦前からあり、原爆の広島、長崎投下を急いだ原因とも
囁かれてきた。東西冷戦の始まりである。
パージの直後に起こったのが朝鮮戦争だった。国内世論の割れる中で、隣国での戦争は
まだ対岸の火事だった。(後略)
コラム
昭和・私の生きた時代49 高橋玄洋
昭和・私の生きた時代47 高橋玄洋
占領下での復活
全てがGHQに決められていた敗戦国の暗く冷たい日常の中で、初めての明るいニュースは古橋広之進選手の世界新記録であった。たしか4百米自由形で全日本選手権であったと記憶する。彼はその後2年間で長距離を中心に23回世界記録を破りつづけるのである。
橋爪選手と共に敗戦直後の日本人に希望を与えた最大の功労者と言えるだろう。
その一方で新憲法が出来たものの、一方では極東軍事裁判が進行し25人に有罪判決が下されたのは昭和23年の年末近くだったと思う。当時の国民感情としては当然の判決と受け取られた。戦後派の軽薄な若者たちがアプレゲールと呼ばれサングラスにリーゼントの髪型が流行ったのもこの頃だった。
吉田茂内閣が発足、一度は失敗するものの2次3次と改造して安定感を与えたのもこの頃だった。私の通っていた新制忠海高校の大先輩池田勇人が蔵相を務め、いずれ総理と言われ事実その通りになるのだが、それはまだまだ先のこと、社会的にはまだ混沌の時代だった。下山事件・三鷹事件・松川事件と矢継ぎ早に不気味な列車事件が起こり、いずれも未解決のまま不安な国民生活は続くのである。やっと二十歳を迎えようとする田舎青年にとっては後に判る裏面など知るよしもなく、イデオロギーなど覇権のための喧嘩としか見えなかった。
(後略)
昭和・私の生きた時代46 高橋玄洋
『酔いどれ天使』
終戦直後の映画について触れておかなければならない。当時の大衆文化の担い手は映画
だったからだ。戦後の映画は完全に二つに分けられる。一つは終戦による反戦と民主主義
謳歌、もう一つは現実の貧困生活からくる現実直視だった。前者の代表が黒沢明の「わが
青春に悔なし」で後者の代表が同監督による「素晴らしき日曜日」「酔いどれ天使」である。
当時は生活自体GHQの監視下にあり、映画も全てが検閲される時代だった。そのせい
ばかりではあるまいが、前者には時世迎合の匂いなしとしない。制作側の戦争協力の反省もあって志の低いものが多かった。しかし、世相的にはそれが受けるのである。そんな中で黒沢はリアルに現実を写しとる「素晴らしき日曜日」を撮り、一部知識階層の注目を集めた。若く貧しい恋人の惨めさを描くことで世の覚醒に寄与したと言える。昭和22年、戦後二年めの作品としては画期的作品といえる。
翌23年、彼は更に混沌の現実にメスを入れ、「酔いどれ天使」で闇市の現実の中に巣くう暗黒社会の暴力を正面切って描いて見せるのだ。(以下略)
ケアハウス・楽しく元気な所沢けやき
地域ぐるみでモチツキ大会
早稲田大学入口近くにある、社会福祉法人みなわ会「所沢けやき」の、ある一日を覗いてみた。
17日、午前10時から餅つき大会が行われた。
ホールに臼を置き、搗き手は入居している男性や同施設役員、ボランティアの人たち。
周りにいる人達の掛け声で、何臼も餅を搗き、傍らで待機する地域の女性20人が手早く、いろいろな味付けの餅をつくり皆に配っていく。地域の役員、民生委員、長生クラブの人たちも手伝っている。
つづいて食堂のステージを中心に演芸大会が始まり、その後、お楽しみ抽選会へと続いた。
ケアハウスとは…
所沢けやきのパンフレットによると、ケアハウスは厚生労働省の軽費老人ホームとして創設した福祉施設。「食事つきシルバーマンション」のようなもので、高齢者に快適で安心した生活ができるように全室個室。食事、入浴、緊急時の対応や生活上の相談なども受けられる。
入居できるのは60歳以上の人。自立している人(自分で身の回りのことができる)、所定の利用料金が支払える人。




